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2008年10月

2008.10.26

歴史探訪ー鞆の浦・仙酔島

 鞆の浦・仙酔島

                                                              備後の国、鞆の浦はJR福山駅から南え14km、瀬戸内海に突き出た沼隈半島の先端にあり、前面は、仙酔島、弁天島、皇后島等の浮かぶ景勝地でわが国で最初に国立公園に指定されたところです。(昭和9年)。

鞆の浦は、瀬戸内海の略中央にあり、潮待ちの良港で西日本海上交通の要所として栄えてきました。当時の動力を持たない舟では、潮待ち、風待ちは必要不可欠であったのです。

かってこの町では、遣唐使、朝鮮通信使そして多くの武人、文人、芸術家が交わり先進的な歴史と文化を形造ってきました。そして源平合戦の地でもあり、平家、足利氏の滅亡から坂本竜馬に関わる

激動も鞆の津の自然は今でもそのままの姿で見ています。これから私の写真を交えながら鞆の浦、仙酔島の散策をしてみたいと思います。

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鞆の港は干満の差が5m近くに達し雁木と言われる階段状

の岸壁や常夜灯は、江戸時代の状態で残ってる。                                                                                                                                                                                           053_2042                                                           

                                                  

対潮楼からみた仙酔島と弁天島

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仙酔島 昭和9年日本で最初に国立公園

に指定され記念切手のモデルにもなった島です

spade  以下要約した

happy01  この地を訪れた朝鮮通信使は「日東第一景勝(日本で一番美しい

勝地 の意)」と賞賛し、その書を残している。

coldsweats01  「日本外史」の著者 頼山陽は、この本の構想を鞆の浦 で練ったといわれ、「山紫水明」という言葉はこの地を表したといわれている

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  女郎部屋発祥の地

平家の女官の中で最も身分の高い者が上臈(じょうろう)と
呼ばれていたのですが、源氏の追討に対し西に落ち延びる

平家は、鞆の浦港で女官を捨てて行くのです。
女達だけで生きていく手段のない女官達は体を売って生計

を立てたそうです。 女郎部屋という言葉は、上臈が女郎と
呼ばれるようになり鞆の浦が、旧遊郭発祥の地となったのです。

     神社仏閣の町

鞆の寺院には、鎌倉、室町時代の仏像が数多く伝来し、社寺
合わせると二十数個も存在し往時の隆盛ぶりが伺える。

   沼名前神社          医王寺

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 仙酔島は不思議な島

thunder 瀬戸内海の潮の流れは、満ち潮の時は、西は豊後水道、
東は紀伊水道等から入り丁度鞆の津で出会う。通常、6時間後には

下げ潮となりそれぞれ逆流していく、然し潮の干満は、年間を
通じて一定ではなく春、秋の大潮時には一日1回潮となり

流速や、干満の差も異なってくる。これは、主として月の引力
に関係するところが大きく、宇宙との関わりを示している。

thunder 人は満ち潮の時生まれ、下げ潮の時亡くなるという。
人は季節の変わり目(立春、立夏、立秋、立冬)に体調を

崩すと言われています。身体に溜まった老廃物や毒素を放出
する必要があります。

thunder 仙酔島の温泉を宣伝するようで恐縮ですが、ここの温浴を
繰り返し、海水浴場の砂浜を裸足で20分程歩くことにより

体内に蓄積されている電磁波が足裏から放出(アース)され
健康な体を保つことができると言われています。

thunder 七福神や竜神などの神々が鎮座されている神秘の島、
仙酔島の自然の力を借りて心身共に充電しては!

    鞆の浦は源平合戦の地でもあった

         (能登原の合戦)

 今からおよそ800年前「屋島の合戦」で屋島を追われた平家は鞆の浦に陣を構えるが更に追い詰められ、西に一山超えた能登原で戦いが展開します。 平家の武将、能登守教経の一団は、源氏の将、那須与一率いる兵に挟み撃ちにされ壊滅、自害する者、ある者は山奥へ、ある者は、舟で西へと逃げていきます。ここ沼隈半島にも平家落ち武者が隠れ住んだ平家谷や史跡が点在しています。

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  能登原から平家谷方面を望む  

 

沼隈半島は、風光明媚な鞆の津や潮待ち舟で栄えた港町がある反面、平家の落ち武者が静かに住んでいたのです。

 

 平家の物語と言えば「盛者必衰」「祇園精舎の鐘の声」 「諸行無常」というものの哀れさを歌ったものが多いなか「美談」もある。 あえて沼隈半島を一周しながら道の悪い能登原を走ったのは、平家落人に思いをはせたからです。

      鶴富伝説の椎葉村

 源平合戦最期の地、壇ノ浦で最後を悟った二位尼 (平時子・祖母)は幼い安徳天皇を抱き寄せ海の底にも都がござる、と海の藻屑となります。後を追う様に安徳天皇の母、徳子(時子の娘)も海にび込みますが、源氏の兵によって助け挙げられます。後、京都大原の寂光院で尼僧(建礼門院)となり菩提を弔い30年を過ごします。 一方壇ノ浦を追われた平家の残党は、筑紫のふところの深い山岳地、椎葉で・・・・・。 この地で生まれた那須大八郎と鶴富姫の話を建礼門院殿が聞いていたらさぞ喜んでおられたであろう?と思い、あえて美談と記した。

 

 

                                              

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