旅行・地域

2009.10.27

南紀と高野山の旅

                          003_2             002      

10月の下旬、白浜の山は色ずく前だった。

                    ブーゲンビリヤが咲き、椰子の木を見ると南国を思い出す。ホテルから見る田辺湾は、どんよりと曇っていた。

004          005    温泉の  

    永久に流れて

            春尽きぬ

山を流れる温泉で石灰が固まり見事な造形美を作っている。

sun

復路は高野山に参拝して帰ることにしていた。みなべから竜神街道に入り、高野ー竜神スカイラインで高野山に行ったが山岳街道は、かなりきつかった。

006 007           標高千三百数十メートルの護摩壇山は、紅葉も終わりかけ落葉が始まっていた。

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2009.10.05

桃源郷 宇陀 と万葉の世界 

 大和盆地の東に位置する宇陀は、飛鳥の都から10km位だろうか!今も昔の風情を色濃く残している。

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古事記、日本書紀にみえる神武天皇の大和平定の物語は、宇陀を主な舞台として展開する。それを物語る史跡や古道をはじめ数々の文化が今も残されている。

宇陀は、万葉の時代には、薬猟の地「阿騎野」として親しまれ、又吉野や伊勢への交通の要衝として、南北朝時代からは城下町として栄えてきた。

Dscf1943 Dscf1952   かぎろいの丘 万葉公園

  阿騎野 人麻呂公園を訪ねた

                                                  

ひむがしの野に 

       かぎろいの 

     立つみえてかえりみすれば

            月かたぶきぬ  ***   軽皇子

この詩は柿本人麻呂が軽皇子(後の天武天皇)の供として阿騎野で狩をした際、雄大な夜明けの情景を詠ったものと言われている。

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今の宇陀は、道の駅や良質で豊富な温泉が湧き出る憩いの場となっている。先人たちが愛した所でいにしえに想いを馳せてみては如何でしょうか。

                                                

    

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2009.09.24

彼岸の一日飛鳥を尋ねた

Dscf1927  彼岸花

   大悲の風に

        身をまかせ

  飛鳥石舞台古墳から山越えで吉野に向かう道がある、彼岸花が咲き乱れる段々畑で有名なところでもある。奥に行くに従って山と山が折り重なるような狭い集落、稲淵の里である。

Dscf1933 ここが 南淵請安の住んだ所であり、墓所がある。

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 南淵請安は、推古天皇十六年(608)遣隋使学僧として派遣され舒明天皇十二年(640)帰国し、中大兄皇子、藤原鎌足らに「周孔の学」偏教を教えた。

   大化の改新影の立役者

  645年の大化の改新は、南淵請安が伝えた知識が、律令国家を創るのに大きな影響を与えたことは、言うまでも無い。然し没年は不明で645年までには、亡くなっていたと言うのが通説だ。

  

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2009.09.02

信州善光寺のルーツを明日香村に尋ねた

  飛鳥甘樫丘の麓に豊浦の集落がある。仏像初伝をめぐるエピソードの舞台となった、日本最古の尼寺の一つ豊浦寺の跡がある。

002_2 003_2  画面をクリックして          

向原寺(豊浦寺)跡

欽明天皇13年(552)百済の聖明王が献じた金鋼釈迦像をめぐり、蘇我、物部両豪族が崇仏、廃仏で争ったことは名高い。

蘇我稲目が天皇から頂いたその釈迦像を、オハリタの自宅に持ち帰り寺に改めたのが起源だが、後に物部守屋等が、これを近くの難波の堀江に投げ込んだとある。

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難波の堀江

難波池の跡

その後信濃の国主に従って上都した本多善光が、或る日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光 善光」と呼ぶ声が聞こえるので善光

がフトその方を向くと、池中から光が差してきます。よく見るとそこにはピカピカと金色に輝く気高い霊像があります。

善光は驚いてすぐさまこれお拾い上げ、傍なる瀧ですすぎ清めると、それは世にも珍しい霊妙不可思議の三尊像であります。

これこそかねてから話しに聞く阿弥陀如来の尊像に違いないと有難く涙にくれながら、この仏像を背に負い信州に帰って吾が家に安置し一心に礼拝供

養いたしました。 これが信州善光寺の起源であります。

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推古天皇はこの地に宮を移され聖徳太子を摂政として政治をお任せになり、飛鳥時代と呼ばれるすばらしい文化のさかえを見たのはこの時であります。

推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡にはまた寺が建てられ豊浦寺と言いました。

金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に広がっていたのです。

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2009.08.31

華岡青洲の里を訪ねた

 医聖 華岡青洲が暮らし数々の偉業を成し遂げた場所

奈良県吉野地方の山々から流れる水は、吉野川となり、和歌山県に入ると紀ノ川と名が変わる。その中程JR名手の北側、小高い丘陵地が那賀町つまり青洲の里である。 

画面をクリックして下さい

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 華岡青洲

宝暦10年(1760)10月、当地に生まれる。母と妻の献身的な協力の下、マンダラゲを主成分とする麻酔薬「通仙散」を完成させ、文化元年(1804)世界で初めて全身麻酔による乳癌摘出手術に成功しました。

この大きな成果は、なによりも難病に苦しむ患者の生命を救いたいと願う彼の情熱の結実でした。 医学の面だけでなく庶民のためになることに積極的に取り組んだ青洲の偉業をたたえ、青洲が生涯暮らした「春林軒」が復元されました。

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 当時の青洲の住居兼診療所で医学校でもあった建物群の一部 、各部屋では 、青洲が初めて麻酔を使用した手術風景を初め、家族の協力を得て行った麻酔の実験、門弟に講義をする様子などが、人形と音声を使ってリアルに再現されています。    

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那賀町の町木 かつらの木

一般にかつらの老木には不思議な力が宿ると言われている。

生命力の強いこの木に葛がからみ木と一体となると縁結びの霊木、愛染かつらとなり、願いを成就してくれる。

   街路樹にかつらの木が植えられ青洲の里らしさがうかがえます。

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2009.05.26

西日本グルリ旅

 山と海そして自然

 三瓶山麓

最初におとずれたのが、島根県大田市の三瓶山、(http://www.iwamigin.jp/ohda/kankou/shokokan/sanbe/index.html)

その裾野に広がる美しい草原と自然景観の素晴らしさに触れてみたかった。

出雲と石見の国境にある三瓶山は、大山、隠岐国立公園の西に位置し、中国地方では数少ない火山で、トロイデ型のユニークな山の形が特徴です。  club 定めの松  江戸時代道標として1里毎に植えられた一里塚

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typhoon 牛の放牧見えるかな

西の原から撮った登山口だが学生の団体が登山前のミーチングを行い山の中に消えていった。この度は、家内同伴でETCのご利益を受け、ゆったり、のんびり車を走らせ、奈良から5時間位でくることが出来た。三瓶山の周辺は、天然記念物の植生やキャンプ場など広範囲に渡る自然環境が整い、まさに

山陰地方の天地の恵みの場でもある。三瓶温泉の三瓶荘にチェックインまで時間があり、麓を散策した。

 美土里町神楽門前湯治村

翌朝向かったのが、中国山地を横断する神話街道となずけられた、国道54号線を走り 安芸高田市(http://www.akitakata.jp/)の北部神楽門前湯治村。3,5時間程のドライブだったが新緑を過ぎ、青緑に彩られた山間をとうる道路は、森林セラピーの恩恵そのものでした。

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typhoon  昭和の初期を思わす佇まいは、”はじめてなのになつかしい”心の安らぎを覚えるところでした。

神楽は羅生門と、曽我兄弟で盛況でした。

typhoon 神楽は、その語源は、諸説あるそうですが、文字どうり「神さまを楽しませる」ことが本来の目的であり、その土地の氏神様に奉納される神事である。今では、各種イベントや祝い事に欠かせない郷土芸能として人々に楽しまれている。

 羅生門と 神楽面の色付け工房

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この般若の面は、私が絵付けして購入しました。

安く手に入り魔除けにします。

 しまなみ街道生口島

次に向かったのが中国自動車道三次から国道184号で尾道、そしてしまなみ街道に入り生口島北で降り、瀬戸田町の港町に着いた。

 ここは、西の日光と言われる耕三寺(http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kosanji.html)、そして平山郁夫の博物館が目的だった。

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Dscf1695 Dscf1669_2 耕三寺と平山郁夫博物館

 耕三次寺は、浄土真宗本願寺派の寺、俗に「西の日光」と言われる。鉄鋼業者金本耕三が母の菩提供養のため仏道に入り35年もの歳月掛けて

建立した。観音山の中腹に本堂をはじめ二十数棟の堂宇を建立した、各時代の代表的寺院を模したもので重要文化財、重要美術品はやく60点に及ぶ。又平山郁夫先生の信仰心と耕三寺の関わりが深かったのが解ったような気がしました。足立美術館で観た沙羅双樹は、脳裏に残っています。

 仙酔島

最後に宿を取ったのが鞆の浦津、仙酔島の国民宿舎。

  [http://www.sensuijima.jp/仙酔島の美しさと不思議さについては、以前旅した時記したので、補足までに!!

昭和9年我が国で最初に国立公園に指定された仙酔島は、太古の自然が今なお残っています。

 Dscf1714_3                         干満の差4mになる船着場

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   五色岩と砂浜

パワースポット五色岩は、インドの聖典に書かれている。

五色岩は、適正を判断するパワーが秘められているそうです、岩に触れて色による温度差や岩の波動が感じられた人は、右脳派。又両手を岩にあて右手が強く感じられた人は、左脳の働きが強いと考えられるそうです。

又五色の色は、五臓六腑とも関係して体調によって触れる色を選ぶのもいいようです。(福山市H,P要約)

cat タヌキともムジナともいえない動物がお迎えしてくれて、帰る時は、見送ってくれた。この砂浜を裸足で歩くことにより体内の不純物がアースされ健康な体になると言う。

仙酔島は、宇宙(主として月、太陽)との関わりが強く感じられる場所で、それが人体と結びついているのがわかった。”鞆の津は、何度来ても飽きることは無い”家路は、出来るだけ2号線を利用ゆっくり帰ることにした。

                                                     

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2009.04.22

南紀の旅

007 春の陽光に誘われて南紀白浜温泉に行った。ETCの恩恵を受けるため、土日を利用したが、大した渋滞も無く、南紀の自然に触れることが出来た。

011 010            ホテルの露天風呂からは、千畳敷きの一部が見えるロケーションで、周りには、草花が一面に咲いていた。

”虫さんも葉っぱさんも

        温泉が大好きです

               遊びにきたら

                   そっとしといてね”

 なんとやさしい言葉でしょう!

   文豪達も白浜温泉にはよく訪れています

        温泉の永久に流れて

                 春尽きぬ

                      高浜虚子

     南紀には世界の名水  富田の水も有名です。

*モンドセレクション世界最高金賞7年連続受賞などいろいろな肩書きを持ったおいしい水が、湧き出たところがあります。

                                

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2008.10.26

歴史探訪ー鞆の浦・仙酔島

 鞆の浦・仙酔島

                                                              備後の国、鞆の浦はJR福山駅から南え14km、瀬戸内海に突き出た沼隈半島の先端にあり、前面は、仙酔島、弁天島、皇后島等の浮かぶ景勝地でわが国で最初に国立公園に指定されたところです。(昭和9年)。

鞆の浦は、瀬戸内海の略中央にあり、潮待ちの良港で西日本海上交通の要所として栄えてきました。当時の動力を持たない舟では、潮待ち、風待ちは必要不可欠であったのです。

かってこの町では、遣唐使、朝鮮通信使そして多くの武人、文人、芸術家が交わり先進的な歴史と文化を形造ってきました。そして源平合戦の地でもあり、平家、足利氏の滅亡から坂本竜馬に関わる

激動も鞆の津の自然は今でもそのままの姿で見ています。これから私の写真を交えながら鞆の浦、仙酔島の散策をしてみたいと思います。

056_2 050    002                                                                                                                                    

鞆の港は干満の差が5m近くに達し雁木と言われる階段状

の岸壁や常夜灯は、江戸時代の状態で残ってる。                                                                                                                                                                                           053_2042                                                           

                                                  

対潮楼からみた仙酔島と弁天島

009_3

069 

仙酔島 昭和9年日本で最初に国立公園

に指定され記念切手のモデルにもなった島です

spade  以下要約した

happy01  この地を訪れた朝鮮通信使は「日東第一景勝(日本で一番美しい

勝地 の意)」と賞賛し、その書を残している。

coldsweats01  「日本外史」の著者 頼山陽は、この本の構想を鞆の浦 で練ったといわれ、「山紫水明」という言葉はこの地を表したといわれている

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  女郎部屋発祥の地

平家の女官の中で最も身分の高い者が上臈(じょうろう)と
呼ばれていたのですが、源氏の追討に対し西に落ち延びる

平家は、鞆の浦港で女官を捨てて行くのです。
女達だけで生きていく手段のない女官達は体を売って生計

を立てたそうです。 女郎部屋という言葉は、上臈が女郎と
呼ばれるようになり鞆の浦が、旧遊郭発祥の地となったのです。

     神社仏閣の町

鞆の寺院には、鎌倉、室町時代の仏像が数多く伝来し、社寺
合わせると二十数個も存在し往時の隆盛ぶりが伺える。

   沼名前神社          医王寺

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042_2 006

   

 

 

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 仙酔島は不思議な島

thunder 瀬戸内海の潮の流れは、満ち潮の時は、西は豊後水道、
東は紀伊水道等から入り丁度鞆の津で出会う。通常、6時間後には

下げ潮となりそれぞれ逆流していく、然し潮の干満は、年間を
通じて一定ではなく春、秋の大潮時には一日1回潮となり

流速や、干満の差も異なってくる。これは、主として月の引力
に関係するところが大きく、宇宙との関わりを示している。

thunder 人は満ち潮の時生まれ、下げ潮の時亡くなるという。
人は季節の変わり目(立春、立夏、立秋、立冬)に体調を

崩すと言われています。身体に溜まった老廃物や毒素を放出
する必要があります。

thunder 仙酔島の温泉を宣伝するようで恐縮ですが、ここの温浴を
繰り返し、海水浴場の砂浜を裸足で20分程歩くことにより

体内に蓄積されている電磁波が足裏から放出(アース)され
健康な体を保つことができると言われています。

thunder 七福神や竜神などの神々が鎮座されている神秘の島、
仙酔島の自然の力を借りて心身共に充電しては!

    鞆の浦は源平合戦の地でもあった

         (能登原の合戦)

 今からおよそ800年前「屋島の合戦」で屋島を追われた平家は鞆の浦に陣を構えるが更に追い詰められ、西に一山超えた能登原で戦いが展開します。 平家の武将、能登守教経の一団は、源氏の将、那須与一率いる兵に挟み撃ちにされ壊滅、自害する者、ある者は山奥へ、ある者は、舟で西へと逃げていきます。ここ沼隈半島にも平家落ち武者が隠れ住んだ平家谷や史跡が点在しています。

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  能登原から平家谷方面を望む  

 

沼隈半島は、風光明媚な鞆の津や潮待ち舟で栄えた港町がある反面、平家の落ち武者が静かに住んでいたのです。

 

 平家の物語と言えば「盛者必衰」「祇園精舎の鐘の声」 「諸行無常」というものの哀れさを歌ったものが多いなか「美談」もある。 あえて沼隈半島を一周しながら道の悪い能登原を走ったのは、平家落人に思いをはせたからです。

      鶴富伝説の椎葉村

 源平合戦最期の地、壇ノ浦で最後を悟った二位尼 (平時子・祖母)は幼い安徳天皇を抱き寄せ海の底にも都がござる、と海の藻屑となります。後を追う様に安徳天皇の母、徳子(時子の娘)も海にび込みますが、源氏の兵によって助け挙げられます。後、京都大原の寂光院で尼僧(建礼門院)となり菩提を弔い30年を過ごします。 一方壇ノ浦を追われた平家の残党は、筑紫のふところの深い山岳地、椎葉で・・・・・。 この地で生まれた那須大八郎と鶴富姫の話を建礼門院殿が聞いていたらさぞ喜んでおられたであろう?と思い、あえて美談と記した。

 

 

                                              

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2008.06.13

韓国の旅

    釜山、慶州を訪れた 

写真は、三日間同行して頂いた朴 基王女史です。

楽しい旅が出来たことを感謝しています
ありがとうございました。   

  018 

まず旅行前に、韓国の歴史を簡単に振り返って見た。  

韓民族の始祖である古朝鮮の初の王 檀君はBC2333年平壌に都を
定めるとあるがまさに神代の時代である。

その後高句麗、百済、新羅の三国が四世紀から七世紀半ばに渡り
韓半島を三つに分け勢力を争った時期があった。

当時我が国は飛鳥の時代で大化の改新があり皇極天皇から斉明朝
になり実権は中大兄皇子がにぎっていた。

663年白村江(錦江)の戦いで百済最後の都、扶余は新羅軍
により陥落し倭国援軍と共に多くの百済人は日本各地に亡命する。

676年新羅軍は三国を統一し首都を慶州に定める。

やがて新羅は衰退し再び始まった”後三国時代”を終息させたのが
高麗王朝(首都開城 918~1392)である。

その後朝鮮王朝となり(1392~1910)首都をソウルに定め
1910年最後の王である李純宗に至るまで27名の王が

継承、519年間持続した。その間モンゴルの襲撃や壬申倭乱、
そして日本軍の侵攻のあったことは言うまでもない。

    慶州

新羅の都が置かれた慶州は、今は28万人の歴史と文化の
街で、屋根のない博物館とも言われている。

最初に尋ねたのが月良洞村という民族村。

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084 国指定の500年前の、上流層の住宅で
柱も丸太を使用し、
保存状態も非常に良い。

居住区では、高床で床下暖房で寒さを凌いでいる。
丘陵地にあるため水の不便さを感じる、

水瓶がそのままの状態で保存されている。

一般住宅では、今でも子々孫々であろうか生活されていた。

   世界遺産石窟庵ー仏国寺

日本海から昇ってくる海霧のため視界が悪かった。

石窟庵は751年新羅35代目景徳王時代の金大城
が両親を偲ぶ為創造されたもので韓国仏教彫刻
を代表すると共に世界的名作として認められている。

視界不良のため撮影が限られた。

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 石窟庵                                      

    仏国寺

金大城によって石窟庵と共に創建されたものです
仏国寺は、新羅文化の根幹で新羅人達が夢に

画いた仏教世界を地上に実現させたものです。

仏国寺境内は、大雄殿、極楽殿、毘慮殿で
大きく仕分けされています。

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                                                        世界遺産歴史地域:古墳公園 

新羅の古跡郡の中で最も規模が大きい古

跡郡である。
新羅王と貴族達の陵墓とされている。1973年公園に造成され三万三千坪の苑内に

23基あまりの陵墓が密集しております。   

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世界遺産八萬大蔵経・海印寺

新羅時代の僧侶 義ソウが802年に伽那山に建立
したとされる。高麗八萬大蔵経版がある所で

「法宝寺刹」と呼ばれる(法宝は三宝の一つ)

    主な建築物

※ 大寂光院:毘慮遮那仏を本尊として奉ってある

※ 蔵経板殿:高麗八萬大蔵経版木を収蔵する庫
  で最も古い建物(1488)である

※ 九光楼

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 四棟の蔵経板殿:  湿度と通風が自然に行われる優れた建造物で、770年の姿のまま残っている。 

釜山龍頭山公園

龍頭山という丘が公園となっており、山頂部にはタワーがあり、タワーの下には、李舜臣将軍の巨像が立っている。展望台から釜山港や国際市場そして市街地が一望できる。

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         海東龍宮寺

釜山東海岸にしがみつくような厳しい岩場にそびえる、1376年に建立された名刹。

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 あとがき

韓国を訪れる度に思うことがある、それは李方子妃である。
方子は、1901年11月4日皇族梨本宮家の長女として誕生した。18歳
で李王朝26代高宗皇帝の皇子李根に嫁ぐ。日韓の不幸な関係を象徴
するような辛い人生を立派に生き抜き、夫への愛と献身を貫きとうした。

晩年は韓国を祖国として不幸な子供たちのために福祉活動に専念してこられた。 こうした方子妃についての報道は私どもの記憶に新しいところである。以前ソウルの王宮、昌徳宮(Chang Dokkung)を訪ねる機会があった。13万坪という丘陵地に自然の山理に従い調和のとれた建物、そして自然庭園の素晴らしさが脳裏に残っています。その中にあった王妃の生活空間
も拝見できました。
この度の慶州は、街の中に三万三千坪という古跡郡を公園に造成、緑化に努められたことは、先祖を崇拝する国民性の現れであると共に自然の大切さを教えてくれたと思っています。我が国に伝わった大陸や朝鮮半島の文化の中に華道、茶道 そして造園の世界がありますが、いずれも大自然への追求をテーマにしています。天(眞)、地(副)、人(添)、これが基本になって いかに自然を表現できるかということだと思いますが、自然の中では人間は、添え物に過ぎないのだとも教えています。「自然は人間が造れない雄一のもの」という言葉と共に人類が
自然を支配したり、その、主役になることは、できない。韓国を旅して考えさせられました。

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2008.04.12

豊臣家縁の陣屋町を尋ねた

    備中足守

足守藩主木下家は、平氏の出身で杉原と称し、織田信長の家臣であったが杉原家定の妹「ねね」が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の

天下人に伴って「北の政所」となりました。このためねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。

姫路城主であった木下家定は関が原の合戦後備中足守に2万5千石のまま所領変えとなりました。

ここに足守藩主木下家が始まり明治維新まで13代にわたって足守陣屋町の整備に尽力しました。

そして我が国蘭学の先駆者、緒方洪庵も足守藩主佐伯推因の三男として生まれ、その生家の屋敷跡も当地にある。

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ねねの生家                                                                                          近水園

足守藩木下家の大名庭園で御殿山を背景にした小堀遠州流の園地を中心とした池泉回遊式ていえんです。県下では、岡山の後楽園、津山の聚楽園と並ぶ大名庭園です。

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太田辰五郎と足守藩との関わり

中央政権が、豊臣から徳川に移り、足守藩も次第に財政が緊迫してきた。丁度その頃、高梁川上流の新見市千屋には、政治力と経済力を兼ね備え

た鉄山業を営む、太田辰五郎の存在があった。鉄を精錬する為には、大量の燃料や水を必要とする。雨季には、下流住民に水害を起こし、その矢先に立って交渉するのが足守藩で、太田家への借金を重ねるのに都合がよかったのかもしれない。積もり積もって辰五郎の時代には、三万両に達していました。

その頃太田家で借金の証文紛失騒ぎがあり、足守藩とのドラマがあったのです。このことは、広く知られていません。

night明治維新と共に製鉄業も近代的な政府の施設で造られる様になり、太田家の鉄山業も衰退し  今は、夢の跡。

night太田家は、広大な屋敷に三方を水郷で囲み前面は千屋川を濠に見立て三千坪の屋敷に、二千坪の庭園があったが、今は松の大木が静かに時代の推移を見守っているだけ。

 北に太田家があれば、南の財閥、児島市味野には、塩田王野崎家があった。野崎家は今でも、野崎家庭園とか資料館として保存され昔に思いを馳せることが出来る。

  太田家墓地                       018

                                                                                                                                                                                                                         

濠跡と亀の子石積  千屋川   013 010

 

 

             二千坪の庭園跡に残った松014の巨木

015_2016_2   何百年も人の手を加えられていない、この松の木の雄姿 に感動しました。                                                                         

雪舟の井山宝福寺    

画聖雪舟が幼い頃修業し、涙でねずみを画いたという伝説で有名な寺です。

臨済宗東福寺派の中本山で七堂伽藍が完備されており、地方では珍しい巨刹といわれております。

        七堂伽藍012 020             

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2007.12.13

ローカル列車で行く中国山地

中国山地

石見の三瓶山(1126)から備後道後山、出雲船通山、備中花見山そして霊峰大山(1726)と国境を千メートル級の峰々が連なっています。国引きの神話によると、三瓶山と大山を杭にし、三保湾の弓ヶ浜と薗の長浜を網にみたて「国来、国来」と引き寄せて国が出来たと語っている。 この雄大さは我々に大きな癒しを与えてくれるものです。(薗の長浜とは斐伊川の河口付近で今の下流は、現在東流して宍道湖に流れ込んでいるが、寛永12年(1635)の洪水以前は西流して日本海に注いでいた。 現在大社町の南方で東薗、西薗、外薗、長浜等の地名が残る。)

一方中国山地は古くから砂鉄の取れるところとして知られていますが、銀まで取れるという宝の山でもあったのです。伯備線、芸備線そして神話の故郷を通りぬけ、山岳超えする木次線は、鉄道フアンならずとも魅力たっぷりの路線です。

石見銀山湯治の湯、温泉津

石見銀山は1526年に発見されて1923年の休山まで約400年にわたって採掘された日本を代表する鉱山です。16世紀半ばから17世紀前半の全盛期には、世界の1/3の銀を産出、外国に多量輸出され外国交易において重要な役割を果たしていた。それは遺跡として当時のままに残されている。平成19年7月石見銀山遺跡(遺跡と文化的景観)が世界遺産に登録され、その付随として港までの搬出、搬入する2本の街道と温泉街が追加された。

016        013_3    石見銀山           018_3 020_2 010

太田市大森町は江戸時代の

面影を色濃く残す町並みが保存された所で、当時の代官所跡もあります。 ここから路線バスで15分位行くと龍源寺間歩「(まぶ)坑道」に突き当たる。石見銀山では、大久保間歩に次ぐ大坑道で、二百数十年間も掘り続けられてきました。開掘の長さは、600米に及んでおり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で残っています。

羅漢寺と五百羅漢

昔銀山で働いて亡くなった人々の霊や我々の祖先の霊を供養するためにと、地元の人々、大森代官所の役人、その他多くの人たちの寄進により明和三年(1766)三月、二十五年もかけて完成されたものです。

なお五百羅漢とは、 お釈迦様に従っていた五百人の弟子のことで、世間一般の感情や欲望等は全て超越しているが仏、菩提の境地には未だ到達せず我々人間と仏との間の存在である。

温泉津(ゆのつ)温泉街

江戸時代に遡ったような、なにか懐かしさを覚える温泉街、ここには我が国屈指の性能をもつ薬師湯があります。 私が入ったのはその湯元で、裏でコンコンと沸く温泉をパイプで湯ぶねに引いただけのまさに百パーセントの駆け流しでした。  熱湯(あつゆ)、ぬるま湯、そして座り湯があり、まずぬるま湯に入ったが五分も我慢できなかった。アバウトな温度計を見ると46度でした、ちなみに熱湯は48度でとても入ることは出来なかった。

木次線と神話の故郷

004_2 奥出雲、船通山に水源を持つ斐伊川は、出雲平野では大河となり宍道湖に流れています。ここ宍道駅から斐伊川沿いに中国山地を超え、備後落合までの81.9kmは、神話の伝承地が点在するユニークなところであり、又鉄道フアンが見逃すことのできない、三段式スイッチバックのある山岳鉄道である。

八岐大蛇神話

天照大神の弟、須佐之男命は、高天原を追放され降りたのが出雲の国、肥の河上、名は鳥髪という地(斐伊川の河上、出雲横田の船通山)出逢ったのが、国津神で足名推と手名推,その娘、櫛名田比売(稲田姫)である。三人は泣き崩れていたので訳を聞くと老父は、私どもには八人の娘がいたのですが八岐大蛇が毎年やって来て、一人ずつ食べてしまい、今ではこの娘一人になってしまいました。そして今年も大蛇が来る時期がやって来ました、と悲しんでいたのです。そこで命は、大蛇はどんな形をしているのかと尋ねると、「目はほうずきのように真っ赤で、からだ一つに八頭と八尾があります。また、その体には、こけや桧、杉が生え、長さは一度に八つもの谷に渡り、腹にはいつも血がただれています」と声を震わせ答えました。それを聞いた須佐之男は見事その大蛇を、退治し尾から見事な一振りの太刀を取り出した。これが”「天のむらくも」”、後の草薙の剣で三種の神器として、子孫である出雲大社の大国主命から大和朝廷に引き継がれ、今の天皇継承となっているものです。稲田姫と結婚された命は、二人のための宮を造る所として須賀須賀しい気持ちになったところに日本初の宮、須我神社(須賀社)を造った。(雲南市大東)

      八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに

          八重垣作る その八重垣を

(盛んに湧き上がる雲が八重の垣を巡らす、新妻をこもらせるための八重の垣をめぐらす、素晴らしい八重垣よ)

この地は和歌発祥の地で大東駅から北東方向に須賀宮と奥宮(八雲山426)がある

須佐之男命と稲田姫合祀.

須我神社(須賀社)

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またここは日本建国の源の伝承地で神楽のメッカでもあります。

日本伝統芸能、神楽と祭り

槻之屋神楽 

雨に霞む船通山 と出雲横田駅        052

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船通山の麓、稲田姫の里、そして,たたら製鉄の里,横田を出たら乗客は4名になった。いよいよ出雲坂根駅(564m)に到着、ここから西日本一高い三井野原駅(726m)、標高差162mを三段式スイッチバックで登ってゆく。

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出雲坂根駅は行き止まり駅、二段目のスイッチバック、右の線路を登ってゆく。トンネルの先は行き止まり、運転手さんは、忙しい、ハンドルを持って行ったり来たりでトンネルの中のポイントを切り替え三段目の左の線路へ登ってゆく。

043 丁度出雲坂根駅の真上付近を通過中、標高差160mだ、間もなく三井野原駅に着く。途中窓の右に国道(314号線)のループ橋が大蛇がドグロを巻いたように見えるのだが雨で霞んで映像に出なかった。

  たたら製鉄の里

日本には弥生時代からすでに鉄を作る技術があったというから二千年近い歴史がある。それは、古くから「たたら製鉄」と呼ばれ、砂鉄を含んだ山を、鍬などで崩しそれを水の力で下手に流し、洗い場へ移して、水を導入して砂鉄と土砂を分離する。いわゆる鉄穴流し(かんなながし)で鉄を採取する方法。 中国山地は、江戸時代にはおよそ100箇所もあったと言われている。特に出雲側には、真砂と呼ぶ良質な砂鉄がたくさん取れた。

然し、鉄を造るには大量の水と大量の木炭が必要です。森林伐採で雨季には洪水が発生し、また灌漑用水の損害と下流の人々の恐怖の的となって、八岐大蛇として恐れられたのです。

私達4名を積んだ列車は、予定どうり13時55分備後落合駅に着いた。シーズンオフとはいえJR西日本に申し訳ないような気持ちになったが、そうでもなかった。それは、ある新聞記事をみたからだ。

「新緑から紅葉のシーズンにローカル線の活性化のため、トロッコ列車おろち号を走らせ、それが好評を博して、今シーズンは2万人を達成したそうです」。JR西日本米子支社に拍手をおくりたい。051

備後落合から芸備線になり道後山の峠を越えると伯備線の合流点備中神代、間もなく新見に予定どうり15時21分到着した。

          太田辰五郎

中国山地の鉄の歴史を語るには、太田辰五郎という豪氏に触れなければならない。辰五郎は備中高梁川の源流地、千屋村(現新見市)に鉄山師の長子として生をうける(1790~1854)。天保2年(1831〕家業を引き継ぎ、事業を拡大、備北一円、そして出雲船通山の麓まで進出し財力をつけた。千両箱を踏み台に江戸まで行けるとまで言われ、又家の普請は、加賀前田利家の江戸屋敷の図面をまねて母屋を造らせ、建物三千坪、庭二千坪を三方を豪で囲み前方は千屋川を豪にみたてた広大な屋敷を造らせた。(今も豪の石州積みの石垣が残っている) 

然し辰五郎は財力を誇示するだけの人ではなかった。天保の二度の大飢餓のときは、莫大な財力を投じ地元住民を救いました。また大名を後ろ盾にした、下流住民との争いは江戸裁判まで発展した。

辰五郎は鉄穴流しもぎりぎりの譲歩をしてきた、鉄山で働く人達の生活をまもり、今の鉄産業の必要性を強く訴え、それが認められた。これは、中国山地の鉄山業に携わる人達の大きな励みとなったことは言うまでもない。そして忘れてならなことは地域、近郊住民の産業起こしとして役肉用牛の大量生産と品種改良に力を注ぎ、大赤蔓という千屋牛ブランドの元を築き上げた人としても有名である。

こうした政治的、社会的な貢献が高く評価され永代名字帯刀を許される。昭和2年には、屋敷跡地に犬養木堂筆の顕彰碑が建立。現在地元有志による顕彰会が発足され、辰五郎の威徳を偲ぶと共に後世に引き継がれている。

    私事

昭和30年代に外国航路の貨物船に乗っていたころ、外国からの帰りはインドのベンガル湾や南オーストラリヤのポートピリー等から鉄鉱石を満載して九州は八幡製鉄、そして北海道は室蘭の富士製鉄(日本製鉄)と日本各地に陸揚げしていました。特にベンガルワンは、チッタゴンや、カルカッタのように、河口の港が少なく、海岸が遠浅である為、小船が通行するとこだけの海底を掘り下げた、仮の港と言ったところから沖の本船に、鉄鉱石を運んでくる。まさに原始的で我が国の江戸時代にもあったかのような船積みをしていたことが思い出された。

今思えば日本の経済成長に鉄と関わっていたのかなと不思議な感がします。然し奥出雲のたたら製鉄が昭和47年まで稼動していたとは、驚きでもありましたが、真砂という良質な鉄は輸入物では採取できなかったのだと思われます。

神話の世界から現実まで思いを馳せながら窓の外を見ると、高梁川は何事も無かったように静かに流れていた。 冬の山陰地方は何時も悪天候が続くと言っていたが、それでも意義のある旅が出来ました。

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2007.07.29

西日本一人旅

 青春18キップで倭から山陽、山陰と気の向くままのブラリ旅を楽しんできた。

  先ず訪れたのが新倉敷(玉島)良寛さんが青年時代に修行した

曹洞宗   円通寺   

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水島灘が一望できる小高い丘に静かに佇んでいた。

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  翌日、金子みすずが暮らしていた山陰は長門市の猟師町仙崎をおとずれ、みすずさんが歩いた道を一緒 (同行二人のつもり)に歩いてみることにした。

   王子山       金子みすず

  公園になるので植えられた、 桜はみんな枯れたけど、
  
伐られた雑木の切株にや、 みんな芽が出た、芽がのびた。

  木の間光る銀の海、 わたしの町はそのなかに、
  
竜宮みたいに浮かんでる。

   銀の瓦と石垣と、 夢のようにも霞んでる。011 
王子山から町みれば、わたしは町が好きになる。

 干鰮のにおいもここへは来ない、
  わかい芽立の香がするばかり。

 海を隔てた向かいの小高い丘は青海島の王子山公園、この写真は、王子山公園から撮った猟師町仙崎の全容である。青海島に向かって左が油谷湾、右手が仙崎湾で、みすずさんは、ここでも多くの詩を創作している。

又防潮堤で囲まれた石垣の辺りは、砂浜で鰮を天日干し、していた所でしょう。

仙崎は、また捕鯨の基地でもあり、そして満州からの引揚船興安丸の寄港地で決してただの漁港ではない。

 街角に潮風にさらされた古い写真があった。

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 優しい眼差しで自然を見つめ人間もその一部分であると、今の我々に語りかけていますみすずさんが眠っている墓所にお参りしました。

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仙崎は、魚屋さんとお寺の多い所で、みすずさんの詩には、魚に関するものが多くあります。明治から大正そして昭和の初めまで過ごした家が復元され、二階のみすずさんの部屋もそのままの状態で当時をしのぶことができます。

一人娘のふさえさんにも関心があり、事務局長さんにそっと聞いて

みたのですが、ある所で静かに過ごされているとの事でした。

炎天下の仙崎を 散策したが私の心の中にみすずさんがいたのか暑さなんか苦にならなかった。

次に訪れたのが神話と伝説のふるさと神の国出雲。かって小泉八雲は「神の国の中で最も神聖な土地は出雲の国である」と書いている。

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040 出雲で一泊、翌朝旅の目標でった安来市足立術館を訪れた。
 名園につつまれ、名画に染まる。足立全康さんの庭造りは、横山大観の画をイメージしたものと聞きます。 枯れ山水の庭、苔庭、池庭など借景と一体となった自然の美は正に
日本一である。

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(庭園もまた一幅の絵画)の言葉どうり見事な日本庭園と大観を初めとする近代日本画壇の名画、陶芸作品や彫刻、また足立全康さんは、童画の素晴らしさも我々に教えてくれています。  130点のコレクションは、四季の変化に合わせて、年4回に分けて公開されています

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                   051     最後は歴史と文化を育んだ松江に来た。山陰随一の名城松江城からは、松江の町並みが一望。また水郷の町でもあり遊覧船で堀川めぐりも出来ます。小泉八雲記念館や武家屋敷をめぐり「壮麗な落陽」と称えられた宍道湖の夕映えに巡り合えた。四つの川が流れ込む宍道湖は又「豊かな幸」の湖、湖面を見つめる観音像が印象的だった。

 金子みすずの仙崎から石見出雲、そして安来の足立美術館と山陰の自然のすばらしさはいつまでも私の心に残ることでしょう。翌朝伯備線経由で帰途についた。

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2007.05.01

春のみちのく路

懲りもせずまた来てしまったみちのく路、この度は湯治を目的に春の大自然の恩恵を受けることにした。

春の白神山地の山々を日本海側から見たかった。東能代駅から沿岸すれすれに北上する五能線、それに平行して走る国道101号、秋田しらかみ駅から乗車して日本海に突き出たところに黄金埼不老不死温泉がある。      

003_2 みちのくの夜明け、五能線、そして不老不死温泉

             

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岩手と秋田にまたがる火山郡からなるアスピーテ火山、アオモリトドマツやダケカンバの原生林、高山植物が咲く湿原郡、標高千メートルの中にたたずむ温泉郡。

馬で来て下駄で帰る後生掛温泉  そして焼山山麓近くに湯煙りを上げる
効能豊かないやしの湯宿玉川温泉  春とは言え八幡平は冬景色だった。

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                            タツコ姫が象徴の田沢湖                                 

仙北市に群生するハンの木と水芭蕉、そしてカタクリの花

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館武家屋敷

江戸時代に創られたもので今もその面影を残しています。

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  • ゴールデンウィーク真近とは言えば、白神の山々も八幡平も新緑に衣替えしてると思っていたのだが、まだまだ冬景色だった。

 麓のブナ林や雑木林の梢が新芽を噴出し、それが薄紫に彩られ一種独特の美しさをかもし出していた。誰がなずけたか春もみじ!

里の野山は、いたるところにフキノトウの群生が見られたことに驚いた。
水芭蕉や、カタクリの花と共に春をいろどっていた。フキノトウは秋田県の
花に指定されていると言うことで納得できた。

家に帰って湯あたり症状(一週間位)が出て身体の不調を訴えていたが、これは、温泉の効果の証なのでしょうか!!

              

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